アウトサイダーを求める
- 2008.06.30 Monday
- 09:58
一昨日の土曜日、クラス企画として、新美術館の「エミリー・ウングレー展」と松下ミュージアムの「アール・ブリュット -交差する魂-」を見てきました。この写真は、最後のビアホールまで参加した方々の記念撮影です。有意義な一日にありがとう。
どちらの展覧会も、美術学校に通い、デッサンの勉強をしたわけではない作家の作品です。サガンに通う会員も同様と考えるのは僕だけ? 参加したメンバーにはいまいち考えが伝わらない事もあろうと、整理してみよう。
今回の展覧会鑑賞テーマは、「絵画技術が未熟と嘆く前に、このシツコイ繰り返しを見習え」です。ひとつに、皆さんがスゴイと感心する、形をとる合理主義にのっとった描写があります。それに対して形の簡略化、もしくは形がない描写というのもあります。その後者こそが、サガン会員が本来興味の元とすべきことと考えています。
たとえば松下のものは、障害者の冠をとって、普通の展覧会としてもなんの問題がないほど完成された作品だったし、身の毛が立つほどの緊張感、もうゾクゾクしちゃう。
というのは、作家というのは勉強するよね。障害者の作品のパワーだって、まねして自分の物にしていきます。そして、新美術館のものは「未開地・土着アート」いままで、生きてきた環境とは180度違うのだから、そりゃビックリ、作家はいただきーとマネするんです。
自分の世界といっても、ほとんどはマネからスタートと言って間違いない。エミリー・ウングレーは1987年から10数年の制作、80歳から始めて3000点。スゴイんだけれど、見ててだいたいが60〜70年代のアメリカンアートを彷彿させる。
タイムマシン?時代が逆を行っている? 僕の想像では、欧米列強の美術館が辺境の土地の作品(プリミティブアートとして)を大々的に収集していて、作家は当然見る機会があり、自分のものにしていく。今回の展覧会はそのオリジナルに接した感じがした。
何度もフェルメールを見に行くのもいいだろう。でも、僕はミケランジェロの壁画が洗浄されて出てきた極彩色の色に思い寄せる。古典ってなんのことだろう? 作り手が求めることは、いつも違和感との出会いじゃないか!